このノオトで,これまでに幾度か「やさしさ」を取り上げた.
例:「ノオト:不親切という優しさ」「ノオト:厳しいだけじゃない」
やさしさの基準や捉え方が,時代や世代によって大いに異なることなどを述べた.
さて,1年ほど前のことである.やさしさの基準の違いなのか,それとも,単にからかわれたのか迷わされる体験をした.
そのとき,カフェの座席は9割方が埋まっていた.僕は二人がけのテーブルに一人で座っていた.僕の両脇の同じく二人がけのテーブルが両方とも空いていた.
そこに,見かけは高校生だが,冷静に判断すれば既に高校は卒業しているであろう女子(つまり大学生か専門学校生の女子)の5名の集団が座席を探して近くにやって来た.
動向を観察していると,ひとりが「ここにする?」と言うと,他のみんなは「そうだね!」とすぐに同意し,僕の両脇に分かれて座ろうとしているではないか.
一緒に来たのだから一緒に座りたいだろうというフツーの気遣いが半分(このような気遣いは,よく電車内で遭遇する),そして残り半分は,ただでさえ賑やかな年頃で,しかも僕とは世代が違う,つまり感覚が違う集団だから隣にいるのは避けたいのに,二手に分かれて挟まれてはかなわないという避難目的だった.
僕が席をひとつずれると申し出たところ,彼女たちは僕の予想外の反応をした.
「やーさしい−!!」と,感情がこもっているのかいないのか,喜んでいるのかいないのか分からないが,ともかく,僕たちの世代なら感動したときに発するような,はっきりとした大きな声だった.しかも,ほぼ全員が声をそろえて.
僕が予想していたことばは「ありがとうございます」あるいは「すみません」だったから,意外さに戸惑うとともに,居心地が悪かった.
彼女たちが,その種のちょっとした気遣いに,ちょっとした感謝のことばを述べることに慣れていないから,簡単なお礼のことばではなく感動のことばになってしまったのか.それとも,慣れの問題が理由だというのは同じだとして,相手を喜ばせておけばいいのだと考えているのか.
いずれにせよ,僕の感覚からすると,感謝されているとは感じられず,悪く取れば,からかわれていると感じてしまった.
実は,そもそも,この種のことばは,それを言う相手の真意を読み取るのが難しいことばでは,ある.
女性が男性に向ける場合を考えると,「やさしい人ね」は脈なしで,「ひどい人ね」は脈ありの場合がある一方で,本当にことば通りの場合もあるからだ.