論争は意見の食い違いか? それとも好みの食い違いか?
トルストイ著「アンナカレーニナ」に出て来る以下の箇所は,論争の本質を突いている.純粋に意見を闘わせている議論はまれで、ほとんどの議論は、冷静に聞いてみると、感情が主役になっている。感情を抑え、論理で議論できる人は大人である。
「きわめて聡明な人々の議論に立ち会って、レーウィンはしばしば気づいてきたのであるが、さんざ苦労し、論理の微妙な駆け引きや、おびただしい言葉をついやした末に、結局、討論している当人たちが、自分らが長いことかかって互いに論証しようと努めていた問題なぞ、とうの以前、論争のはじめからわかっていたくせに、お互いの好みが違うばかりに、論破されまいとして、自分の好むものを明らかにしようとしないだけの話なのだ、という意識に達することがよくあるものである。」
〈出典〉世界の文学セレクション36「トルストイI・アンナカレーニナI」トルストイ著;原卓也訳、中央公論社(1994年刊)、476ページより。
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