マナー

2017年8月18日 (金)

日本とバンクーバー(カナダ)の対比

Vancouverbus

2017年7月にカナダ・バンクーバーを訪れた。そこで感じたことをランダムに記す。

●車のクラクションが多い(日本と比較してかなり多い)。

●完全に、そして徹底して、車は人を優先する。ただし、信号無視の歩行者には容赦なくクラクションが鳴る。

●日本では、横断歩道で止まってくれている車に申し訳ないと思い、会釈などするが、バンクーバーではそれをするとむしろ違和感がある。なぜなら、歩行者が優先されるのが当然だからである。

●信号の切り替わり間隔が、日本に比べるととても短い。だから、信号待ちの時間が苦にならない。

●信号機は、トロント(カナダ)と同様に、カウントダウン型が多数派である。

●トロントほどは街がきれいではない。街の中のゴミ箱が、トロントに比べると少ない。

●路線バスの降車合図方式は、ローテクだ。(日本の路線バスと同様の降車ボタンが少数設置されてはいるものの)基本的には、バスの前後長の半分ほどの長さの黄色い紐が左右の窓沿いに張られていて[上の写真(クリックで拡大)を参照]、それを引いて合図する。紐の先がスイッチにつながっていて、紐を引くとスイッチがONになる構造である。天井の蛍光灯をON/OFFする紐にさらに紐を付けて長くして、立ち上がらなくても天井蛍光灯をON/OFFできるようにするのと同じ方法である。咄嗟には、ローテクすぎて可笑しいと思ったが、改めて考えると、ローテクだからこそ、故障しても修理箇所は少なくて済むし、何より、紐が切れれば故障だとすぐに分かる。ハイテクに対するローテクの優位性の一面を見た気がする。

●SkyTrainという電車は、走行音がうるさく、揺れが激しい。(後で調べて知ったのだが、無人の自動運転だそうだ。とはいえ、走行音のうるささと揺れの激しさは、無人運転とは別問題である。)

●SkyTrainには、車椅子でも介助なしで乗れる。ホームと電車の床の段差がほとんどないから、そうできる。電動車椅子の人が、何ごともないようにするりと乗車するのを見た。(日本では、車椅子の場合には、駅員が介助する。乗車駅と降車駅で駅員が介助する。駅員の負担もさることながら、乗る人が受ける制約が大きいと思う。その点、SkyTrainは誰でも気軽に利用できるのがいい。)

●SkyTrainの窓ガラスには "For Your Safety - Please Hold On" と書いてある(「安全のために、つかまって下さい」)。日本語表現と対比すると、「何を」つかまるとは書いてないのが興味深い。日本ならば「手すりやつり革に」と書くところである。

●SkyTrainの、空港と市内を結ぶ路線 Canada Line には、Langara 49th Aveue という駅がある。その駅を表わす車内アナウンスは "Langara 49th" だけだった。それでいいと思った。なぜなら、日本では長々と正式名称を英語アナウンスするのをよく聞き、そこまで長々と言われるとかえって分かりにくいのではないかと、かねがね思っていたからだ。JR常磐線で水戸駅に着く前の乗り換え路線アナウンスの "Kashima Rinkai Tetsudo Oarai Kashima Line" や、同じく勝田駅に着く前の乗り換えアナウンス "Hitachinaka Kaihin Tetsudo Minato Line" は、正確さを重んじすぎて分かりにくくなっている例であろう。

●チェーン店のサンドイッチショップ Tim Horton で学んだ英語表現がある。Ham and Cheese Sandwitch を注文したところ、"Crisp, or grilled?" と聞かれた。咄嗟には意味が分からなかったので尋ねたら、パン(バゲット)を加熱しないのがクリスプで、温めるのがグリルドとのこと。日本の感覚だと、オーブンレンジで温めるとパリッとするのでクリスプという感覚だから、意味が反対になる。現地の意味を解釈すると、温めないとバゲットの硬さが残るからクリスプということのようだ。(メニューから判断すると Tim Horton は、サブウェイのライバルチェーン店のようだ。)

●(これは外国一般にあてはまることだと思うが)一人で旅している人は、まず間違いなく日本人である。

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2016年5月29日 (日)

注意深い女性

考えあって,が普通自動車運転免許を取ったのは30歳を過ぎてからだった.普通に考えたらベテランドライバーの歳だから,最初は初心者マークを付けるのが照れくさかった.

しかし,初心者マークの発するメッセージの大切さは理解していたから,照れくささを隠すために開き直って付けていたら---何事もそうであるように---次第に慣れていき,照れくささはどんどん減少していった.

さて,僕自身が付けることになるのはまだしばらく先のことだが,70歳を超えたドライバーが付ける高齢者マークも,当人にとっては複雑な気持ちを引き起こすだろう.かくしゃくとしているのだから,まだ付ける必要はないと考える人も少なくないだろう.

とはいえ,高齢者マークを目撃する頻度はどんどん高まっているから,加齢による避けられない心身能力の低下を自覚しているドライバーが増えているのは間違いない.

このような状況だから,高齢者マークの表示は重要なメッセージになっている.高齢者マークが付いていることで,こちらの注意の配分が適切化することにより事故の可能性が低下することに加えて,上手ではない運転に対してイライラすることもなくなり,これまた事故の可能性の低下に結びつく.

さてさて,背景説明が長くなったが,本題は,高齢者マークのメッセージを有効に活用している女性の話である.

先日見かけた高齢の女性は,自転車に高齢者マーク(自動車用!)を貼り付けていた.

変なおばあさんだと見る人も多いだろうが,しっかりとメッセージを発するために実行しているのだと考えると,応援したい気持ちになる.

ただ,ひとつ遺憾なのは,高齢者マークを付けなくとも,自転車に乗るその姿が既にメッセージになっているということに気づいていないのかもしれないところである.

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2015年12月14日 (月)

電話の出かた

受話器を取ってすぐに話し始める人がいる.概して,仕事をてきぱきとこなす人に多いように思う.

ただし,仕事をてきぱきとこなすことと,仕事ができることは違う.

本当に仕事ができる人なら,電話回線はすぐには繋がらないことがままあり,話し始めのことばが相手に伝わらないことを認識しているはずだからだ.

(トゥルルー…トゥルル−…カチャ)
相手 「※§♂$です」
僕 「○○○○ですか?」
相手 「はい,そうですが…」
・・・というやり取りを,年に数回は,している.

話し始める前に「はい,…」「もしもし,…」「お電話ありがとうございます,…」など,何でもいいから,“間”を置いてから話し始めるべきなのである.

往年のベストセラー「気くばりのすすめ」(鈴木健二著)にも,同様のことが書かれている.

サッと電話に出て,パッと話し始めることが効率的だと考えているうちは,まだ本当の効率が分かっていない.

さて,最後に,電話の出かたについて,もうひとつコメントしておきたい.

それは,呼び出し音が鳴り,すぐに取れる状況であっても,2回待ってから受けるべきだということである.

電話をかける側であるとはいえ,話し始めのことばを完全にまとめてからかけることは少ない.話したい内容をまとめつつ,コール音を聞きながら話し始めのことばを選ぶ時間,気持ちを準備する時間,が必要である.

呼び出し音が1回も終わらないうちに相手が出てしまうと,一瞬戸惑ってしまい,まとまりのない話し出しになってしまうからだ.

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2015年3月10日 (火)

やはり,キーボード操作音は迷惑!?

Tohokusinkansenkeyboardパソコンや携帯電話(スマートフォン)のキーボードについて,は,研究テーマのひとつにしているくらい,使い勝手の改善に興味を持っているが,キーボードとマナーの関係にも強い関心がある.

例:「ノオト:発表会でのマナー違反」「ノオト:タッチスクリーンのやさしさ

先月,久しぶり(2年ぶり?)に東北新幹線に乗ったら,東海道新幹線や常磐線特急とはまた違ったマナー掲示に興味を持った(写真参照;クリックで拡大).

「列車内では、キーボードの操作音など、まわりのお客さまのご迷惑とならないようにご配慮ください。」

乗客層に応じて,各路線が苦慮していることがうかがえる例である.

それとともに,掲示が必要なくらい,キーボード操作音を迷惑と感じるクレームも多いことがうかがえる.

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2015年2月14日 (土)

オバタリアン

昔,オバタリアンということばが流行った.
(手元の国語辞典を引いてみたら,予想外だったが,載っていた.それによれば,1989年に流行したことばとのこと.)

自己中心的で騒がしい中年女性の群れを揶揄して,そう言った.

しかし,も多少の人生経験を積み重ねつつアラハーとなった今,自己中心的で騒がしいのは中年女性に限ったことではなく,あらゆる年齢層と性別,つまり老若男女にあてはまると感じる.

電車の中の高校生(男女問わず),サラリーマン,ランチタイムの女子,ハイキング帰りと思しき高齢者,これらあらゆる場合に,集団となるとオバタリアン的になる例を幾度も目撃してきた.

仲間が集まれば,周囲に目が行かなくなるほど楽しくなるものである.

かしましいは女性が三人集まった字で「姦しい」と書くから,古来から女性にそのような傾向が強いのかもしれないが,男子が女子化しているといわれている昨今だから,男子にも,そして幅広い年齢層に,かしましさが浸透しているということかもしれない.

実際,変わりやすいもののたとえとして現在では,「女心と秋の空」と言うことが多いが,手元の辞書によれば,元来は「男心と秋の空」と言ったそうだから,ことばがひとり歩きして,人々の思考に影響しているだけという可能性もある.

結局,人間は自己中心的なものなのだろう.

自分が静かにしているときには他人の騒がしさを嫌がり,自分が楽しく賑やかなときには周囲への配慮ができない.

ところで,最近読んだ本「つくられる偽りの記憶---あなたの思い出は本物か?」(通販サイトAmazonへのリンクはこちら)は,自分の確信が如何に不確かなものであるかが分かる興味深い内容である.その最終章「本当に昔はよかったのか?」で,大倉幸宏著『「昔はよかった」というけれど』からの引用として,1935年の新聞記事が紹介されている.記事には,電車の中で化粧をする女性に感心しないと書かれているそうだ.

人のふり見て我がふり直せ,これは,物理的な歳を重ね,オトナになったつもりの自分に,僕が度々言い聞かせていることばのひとつである.

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2015年1月23日 (金)

東海道新幹線におけるマナー,そしてサービス

は利用することが少ない(年に数回)東海道新幹線を,最近利用した.その際に,マナーに関するアナウンスと,車内検札(車内改札)に際してのサービスについて,変化を感じたので述べたい.

(電車でのマナーや,JRのサービスについては,このノオトで幾度も述べてきた.その中の一例を挙げれば「ノオト:JRのサービス改善(続)」がある.)

まずはマナーについてである.

これまで長い間,電車やバスの座席背もたれマナーといえば,背もたれを倒す際には後ろの人に声を掛けることだった.恐らく今でも,それをマナーとしている電車やバスは多いと思う.

ところが,最近乗車した東海道新幹線のアナウンスは,背もたれを倒す側ではなく,その後ろの座席の乗客への注意喚起であった.それは,前の人が背もたれを倒すことにより,テーブルに載せたものが倒れたり落ちたりする可能性があるので,注意してくださいとの案内であった.

乗客のマナー意識や他人とのコミュニケーションの変化に対応したものかもしれない.あるいは,背もたれを倒したら後ろの席の人に迷惑がかかる構造に対するクレーマー対策かもしれない.

いずれにせよ,僕は,主従の逆転の歴史の目撃者になれたようだ.

次は,車内検札に際してのサービスについてである.

車内検札に際する不愉快やサービス改善については「ノオト:JRのサービス改善」でも取り上げたが,やっと,寝ている乗客をそっとしておくサービスを見た.

最近乗車した東海道新幹線で,寝ている人を飛ばして検札する場面を見た.何が何でも起こして検札するのが当たり前だったJRのサービスに変化を見た.もっとも,指定席でも車内検札する東海道新幹線は,指定席ならば新幹線でも特急列車でも検札しないJR東日本のサービスには及ばないが….

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2013年11月30日 (土)

ひゃくパー

以前,時代によってことばの受け入れられ方が異なることや,時とともに発音が変化していることを述べた(ノオト「くさげ?」).

ここでは,が近年気になっている若者のことばについてコメントしたい.

それは,「ひゃくパー」「5パー」など,「パーセント」を「パー」と省略することである.

もちろん,仲間うちの会話で使うことは問題視していない.オトナとの公の場でのやりとりにも当たり前のように使われることに違和感を覚えるのだ.

《註》インターネットをネットと略すことに対する違和感について,ノオト「ネット」で述べた.これについても,まだ僕の中でわだかまりはあるが,あまりにフツーの呼び方になってしまったので,僕自身も,大学生協などで「ネット注文した本を受け取りに来たんですが…」などと口にしてしまう.ここで「インターネット注文」を使うとかえって変だと感じるし(^_^;),そもそも,相手のことばを使うことが相手を尊重したコミュニケーションの基本だと思っているからである.

大学で,学生から「パー」を使われると,こう聞いてみたくなる.

「パーとは,パーセント? それともパーミル?」と.

空気を読めば「パーセント」に決まっている場面では,完全にヘリクツになってしまうから,そう聞くことはないが,「パーセント」と言って欲しいと伝えている.

ちなみに,パーセントが百分率であるのに対し,パーミルは千分率である.パーセントが,全体を100としたときの量であるのに対し,パーミルは全体を1000としたときの量である.500円の10パーセントは50円,500円の10パーミルは5円である.パーセントの記号は「%」,パーミルの記号は「‰」である.

今や「携帯」と言って「携帯電話」以外を思いつくことはまずないから,「パー」についても「携帯」と同様の存在なのだろう.
(以前のノオトで,同様のことば「ノーパソ」を取り上げたが,近年は耳にしなくなった.)

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2013年10月11日 (金)

節煙

昨今,禁煙や分煙が浸透し,タバコの煙のない環境で過ごせる時間の割合が増えてきた.

鉄道の駅の構内も車両内も全面禁煙のJR東日本では,少なくとも顔に煙を浴びることなく駅と電車が利用できる.
多くの駅にある特例は,駅構内の店舗の喫煙席である.
(の知る限りにおいて,これにあてはまらない唯一の例外は,上野駅在来線特急ホームの端にある喫煙ルームである.スモーカーも大切なお客であることに違いないから,最大限の妥協をしているようだ.ガラス張りの喫煙ルームはいつも満員である.)

きれいな空気の中で過ごせる時間が増えたせいか,最近(5年ほど?)は,僕はちょっとしたタバコにも敏感に反応するようになったように思う.

例えば,禁煙であるはずの駅トイレ個室に充満するタバコのニオイである.
臭いなぁと思う程度ならましである.
10回に1回くらいは,臭くて臭くて,気分が悪くなる.
煙こそないのだが,きついニオイが充満して頭がクラクラすることがある.

また例えば,特急列車内でも同様のつらさを経験したことがある.
電車に乗っている1〜2時間を我慢するために吸い貯めしてきたとおぼしき人が隣に座ったときである.
10分もしたらタバコのニオイはしなくなるだろうと予想していたが,30分経っても一向にニオイが収まらないことがあった.
吸い貯めもさることながら,普段からヘビースモーカーなのだろう.
ニオイのためか乗り物酔いのような症状になり,気分が悪くなって,指定席だったが他の空席を探して移動した.

さて…

都会にいる間,そしてJRを利用している間は禁煙と分煙が進んでいるから,上述の比較的まれな場合を除いては煙と無縁だが,僕の住む地方都市の喫茶店は,喫煙可能で分煙されていないのが当たり前である.

食事とおいしい珈琲と憩いのひとときをとるか,煙を避けることをとるかを天秤にかけつつ,そして,喫煙客が少ないことを願いつつ,喫茶店を利用することが度々ある.

タバコが吸える店は喫煙者にとっては救いだから,そして,そのようなお客を相手にするのも店の経営だから,こちらがどうこう言えるものではない.
損得を天秤にかけて店を選んでいるのは自分自身なのだ.

そのような難しい状況にあって,僕のような非喫煙者にうれしい案内をしている店がある.

その店(喫茶店K)のメニューには「食事時は節煙にご協力下さい」と書かれている.

“節煙”は僕には馴染みのないことばだったが,普通に国語辞典に載っていることばだ.

禁煙化には踏み切れない事情がある中で,せめてもの対応をしてくれているのがありがたい.

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2013年5月10日 (金)

「メールのマナー:転送編」への補足(その2)

ノオト「メールのマナー:転送編」では,メール転送のマナーについての持論を述べた.

その内容で共感してもらえた人も少なくないと思うが,さらに共感者を増やすために補足しておきたい.

あるグループでのメールでのやりとりをそのまま引用してグループ外に転送する,あるいは新たなメンバーを宛先やカーボンコピー(Cc)に加えることがマナー違反であることは,次の心理と対応する.

レストランで,一緒に行った人と話をしているときに料理が運ばれて来ると,話を中断することがある.

店員は他人であるし,話を聞かれても何ら問題はない.しかし,話を中断してしまうのは,自分たちだけの場合と,店員が加わった場合とでは場の空気感が異なるから,そのまま話を継続できないのだ.最初から店員がそこにいるのであれば,違う表現や話の仕方があるのだ.これは正に,安易なメール転送がマナー違反であることと対応する.

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2013年4月 1日 (月)

自分の記憶

子どもの場合は分からないが,ある程度成長すると,直前の自分の行動を思い出せないことがある.それは,必ずしも記憶力が低下しているからではなく,習慣化,自動化した行動が記憶に残りにくいからである.

例えば,外出前にヒーターのスイッチを切ったか,あるいは鍵を閉めたかなど,自分の行動の記憶が定かではなくて再確認することがある・・・・心配性のはこういうことがよくある.

習慣化した行動以外にも,ひとと話をしながら手に持っていた物を無意識にどこかに置いたりすると,その置いたことを忘れて立ち去ることがある.その物自体を完全に忘れて,しばらく経ってから別の目的で同じ場所に行き,そこに自分が持っていた物を見つけることがある.

後の方の無意識に関しては対処が困難だが,前の方の習慣化,自動化による場合については,いい対処法があることが分かっており,古くから実践されている.それは,指差し確認あるいは指差し呼称と呼ばれている方法である.

ヒーターのスイッチを切ったなら,ヒーターを指差しながら「ヒーター,スイッチOFF!」などと口に出すのだ.これは,目,口,耳,身体を動員する方法である.電車を利用すると,運転士や車掌の指差し確認を目に耳にすることができる.

仕事の現場ならともかく,日常では不要だと思うだろうか? そう思う人は,まだまだ脳が若いということだと思う.僕くらいの年齢になると,指差し確認の有用性を強く感じる.ただ,僕のヒーターの場合でいえば,声に出さずに指差し身振りと内なる声だけで十分に機能する.更に年月が経てば,内なる声では不十分になる可能性が高いから,僕はまだ比較的若いといえよう!

指差し確認の有効性については,例えば「指差呼称は有効か?」を参照.

さて,例によって前置きが長くなったが,今回の話題は,過去の自分と現在の自分についてである.

上に述べたのは,数分〜数十分前の自分の行動の記憶のことだが,ここからは10年〜数十年前の自分自身の記憶について述べたい.

よく,人間の身体中の細胞は死滅と生成を繰り返すし,新生はほとんどない脳細胞についても,脳細胞の結合状況(シナプス結合など)が時々刻々変化するのに,個としての一貫した自分があるのはなぜか?——それが科学的に解決すべき課題であると言われる.

が,僕にはいくつか,過去の自分が自分だとは思えないことがある.ここでは,大昔のことと13数年前のことをひとつずつ紹介しよう.

まずは,小学生の頃の自分である.小学生の僕は,頻繁に忘れ物をし,宿題をせず,机の中はぐちゃぐちゃでカビの生えた給食のパンが奥深くに押し込められ,本を読む習慣がなく,小学校6年間で読んだ本は1冊あるかないかであった.10代中盤以降の僕は,忘れ物をせず,宿題をしないことを恥ずかしく思い,物が整理できていないのをきらい,読書家ではないが本を読むのが好きだ.現在の僕には,小学生の自分が自分とは思えない.

比較的最近にも,それが自分だとは思えず信じられないことがある.それが13年前の自分である.

少なくとも4年以内の僕は,電車,カフェなど人々の集う場所でPCキーボードの音を高らかに立てて打鍵している人を大変に嫌っている(それが4年以内であることはノオト「発表会でのマナー違反」に書いた自分の主張から窺える).ところが,である.13年前に知り合った知人Uがよく覚えているそうなのだが,出会った最初の日,僕は(20〜30人の人々が集まっている恐らく静かな部屋の中で)ノートPCを操作していたそうだ.キーボードの音を高らかに立てて! 僕のマナー意識が変化したのだろうが,そのようなマナー違反をしている自分が自分だとは信じられない.知人Uが信頼できる人だから事実として認めざるを得ないだけである.

さてさて・・・

人から言われて,そういうこともあったと思い出せることがある.それは,記憶には残っているということである.何かを忘れていると分かるのは,少なくとも事象の断片や,自分に生じた感情を覚えているからである.行動の記憶そのものはなくとも,自分ならやりそうなことだと思えることもある.それは,今の自分とその当時の自分を結びつける記憶ネットワークが存在するからである.まったく忘れていたら,忘れていることに気づかない.

映画「50回目のファースト・キス」(原題 "50 First Dates") は,人間と記憶について考えさせられる作品である.序章は下ネタがやや多めではじけた雰囲気のコメディーだが,次第に人間について考えさせられ,感動で終わるラブコメディーである.

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