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2012年10月

2012年10月28日 (日)

使いやすいことの弊害!?

Humanbeingはモノの使いやすさを研究テーマのひとつにしている.つまり,モノの使いにくい点を改善しようという研究である.

しかし同時に,不便さを大事にしたいという気持ちも強い.これは,子どもや若者なら,不便を糧に経験を積んで欲しいと思うからだ.

思い返してみると,僕は不便な子ども時代,若者時代を過ごしてきた.

僕が特別に不便だったこともあるが,大半はその時代ゆえの不便さだったから,つらいとかイヤだとか思ったことはなかった(と記憶している).

紀元前のギリシャの著作にも「今どきの若者は…」という記述があることからも分かるように,人の世は常に変化している.だから,いつの時代にも,「今どきの若者は…」vs.「年寄りは決まって…」という構図があるのだろう.アラハーの僕からしたら,若いうちは不便さを楽しんで欲しいと思っても,今の若者も歳を重ねた後には,振り返れば昔は不便だったなーと思うのかもしれない.

前置きが長くなったが,ユニバーサルデザインやバリアフリーもいいことばかりではないことを述べたかった.
(ユニバーサルデザインやバリアフリーについては「ユニバーサルデザインQ&A」や「バリアフリーとユニバーサルデザインの違い」などを参照.)

ギュッと握って回さなければならないドアノブ,小さな子どもが背伸びして手を精一杯伸ばさなければ使えない水道,靴紐のある運動靴,などなど,足の先から頭のてっぺんまでたっぷり使いこなさなければならない環境も大事だと思う.動物としての人間を磨くためには,子どものうちは,使いにくいモノに囲まれた環境も必要ではないかということだ.

実は,これは子どもに限ったことではない.低くて干しやすい物干し竿ではなく,背伸びして使う物干し竿を使って毎日洗濯物を干しているという,長寿で有名なおばあさんの逸話を聞いたことがある.背伸びして洗濯物を干しているから元気なのか,それとも元気だからそれができるのかは,鶏と卵の関係であろうから,「毎日背伸び → 元気で長寿」という因果関係を断定することはできないが….

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2012年10月 2日 (火)

考えもしなかった自動ドア

はモノの使いやすさを研究テーマのひとつにしているから,職業として,あるいは趣味的な考察として,かなり幅広く考えを巡らしていると自認している.

だから,テレビCMでインテリジェントecoドアシステムを見たとき,「やられた!」と思った.

そのドアシステムは,ドアの方に向かって進めば開くが,ドアの前を横切る場合には開かない自動ドアである.ドアの前に人がいるから開くのではなく,人の動きを判断して開けるかどうかを決めるからインテリジェントなのだ.

自動ドアには,手でスイッチを押して開けるものも多い.それは,ただドアの前にいる人や,ドアの前を横切る人でドアが開いてしまうのを防ぐ目的で付けるものである.自動と手動の折衷案として優れた発明だと思う.その折衷案を不要にし,完全に自動化したのがインテリジェント自動ドアである.

さて,正確に言えば,「やられた!」は,自分が完成や解決を目指していたものについて先を越された場合に使うから,自分がまったく考えもしなかった今回の場合には当てはまらない.

しかし,僕はさまざまな不便を敏感に察知し,無意識の漠然とした不満としてではなく,明確に意識化していると思っているから,恐らく数百回は利用したであろうスイッチ式自動手動折衷型ドア(これは僕が勝手に付けた名称です)の不便を具体的な考察の土台に載せられなかったことが悔しくて「やられた!」という表現になった.

また,「やられた!」にはもうひとつ理由がある.

それは,類似性はあるものの,恐らくもっと難しいと思われる課題について長年,時折考えていたのだが,その課題よりも問題設定が明確で,もしも考え始めていれば解決策を思いついた可能性が高い今回の自動ドア問題に考えが至らなかったのが悔しかったのだ.

とはいえ,仮に僕がインテリジェント自動ドアと同様のシステムを考案していたとしても,考案を製品につなげるためには縁や運も必要であるから,この製品を見て文字通り「やられた!」と思っていた可能性が高い.

「やられた!」を刺激とし,バネとして,これからも,不便さを純粋に察知する感性を磨いてゆきたいと思う僕であった.

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